Masuk麒麟の姿になった華麟の背は大きく、馬よりも安定して見えた。だが、それでも目の前にいるのは伝説上の霊獣である。乗るという発想自体が非現実的だった。
そもそも、前田は馬に乗ったことすらない。乗馬などただのサラリーマンには縁のない話だ。
外からかすかに金属の鳴る音が聞こえた。
もしかしたら追手が来ているのかもしれない、と前田が思うよりも先に美凰が表情を変えていった。
「早いな。もう近くまで来ている。」
「本当に追手が?」
「だから言った。」
前田は観念した。
荷物は後で手配するという美凰の言葉を信じて鞄だけを手に取り、華麟の背におそるおそる跨る。鱗の感触がスーツ越しにも伝わった。
硬いが冷たくはない。むしろ、生命の熱があった。
《しっかり掴まってください。舌を噛みますよ。》
「え、ちょ――」
華麟が地を蹴った。
家の戸が開くより早く、前田の視界が跳ねた。
壁が近づき、消えた。華麟は開け放たれた裏戸から庭へ飛び出し、石垣を一息に越えた。前田は必死に鬣へ掴まった。落ちたら死ぬ。少なくとも、普通の人間なら死ぬ高さだった。
だが華麟の動きは滑らかだった。
地面を走るというより、風の上を跳ぶようだった。屋根瓦が後方へ流れ、細い路地が一瞬で過ぎ去る。古風な町並みはどこか日本に似ており、漢字を用いているので大体の意味は分かった。
そこへ一羽の大きな鳥がやってきたかと思うと、降り立って荷物を持った人間の姿となり隣を走った。さきほど「後から荷物を手配する」と言っていた美凰だった。
走っている、というより、軽くないはずの荷物を背負って屋根から屋根へ跳び移っている。衣の裾が風に舞う。人間の身体能力ではあり得なかった。
「まず状況だけ言う。」
美凰の声は風に流されず、はっきり届いた。
「ここは
「連邦制……。」
「そしてここは、その構成国の一つ、
華麟が塀を越える。
《前田様は、女性皇太子である彩比売殿下の夫となる素王として召喚されました。私と美凰が召喚しました》
「素王って何?」
《実際に王権を行使するわけではないですが徳によって人々を治める王を指します。》
説明はまだ腑に落ちない。だが、それ以上に気になる言葉があった。
「皇太子の夫?」
《はい。彩比売殿下は次期法皇であらせられます。ですが女性であるため、女系法皇を認めない派閥から強く反対されています。殿下が夫を得るなら、その夫は素王か皇族でなければならないと、女系法皇を認める側からも言われているのです。》
「それで私?」
《はい》
華麟の返事には、冗談で逃げられる余地がなかった。
前田は頭を抱えたくなった。抱えようとしたが、華麟の背から落ちそうになったのでやめた。
「待ってください。私は前職サラリーマンですよ。貧乏な家で育って、政治も宮廷も何も知りません。そんな人間を皇太子の夫に?」
「だから素王だ。」
美凰が言った。
「異世界から来た純仙は、既存の血縁秩序に縛られない。皇族や王族の近親婚が続く世界に、新しい血を入れる役目もある。」
「魔王討伐は?」
「それも名目としては本物だ。だが、千年以上、魔王を倒した素王はいない。」
「えっ、魔王に勝てないんですか?」
美凰は前田のツッコミは無視して屋根の上で足を止め、周囲を確認した。
華麟も広場の外れに着地する。人影のない廃屋の陰だった。
《前田様、ここで一度降りてください。人の姿に戻ります。》
「あ、はい。」
前田は慌てて華麟の背から降りた。
足が震えていた。走っていたのは自分ではないのに、身体中に力が入っていたらしい。
華麟の身体が光に包まれ、再び人間の女性の姿へ変わった。先ほどまで前田が跨っていた場所に、今度は金色の髪の美女が立っている。乗ったまま変化されていたら大惨事だったに違いない。
美凰は屋根から音もなく降りてきた。
「ここからは少し歩く。追手を撒くには、足跡と霊気の流れをずらす必要がある。」
「霊気をずらす?なんですか、それ。」
「今は言葉だけ覚えろ。」
美凰は冷ややかに言った。
「もう一人の素王についても話しておく。佐藤綾子。二十八歳の女だ。」
前田の思考が止まった。
「……佐藤、綾子?」
「知っているのか?」
美凰の視線が鋭くなる。
華麟も不安そうに前田を見た。
前田は数秒、言葉を探した。
そして、絞り出すように言った。
「……私を振った女性です」
思いがけず、その場に重い沈黙が落ちた。
風が、廃屋の破れた戸を揺らした。
「……振った女?佐藤綾子は知り合いなのか?」
美凰が繰り返した。
「思い出したくありません。私を、男としては見なかった人なので」
「詳しく言え。」
「いや、詳しく言う必要ありますか!嫌ですよ!」
「ある。」
前田は深いため息をついた。美凰はこちらに会話の主導権を委ねる気はないらしい。
「綾子さんは育ちが良くて、頭も良くて、見た目も良くて、まあ、誰が見ても令嬢という感じの人でした。私は貧乏な家の出で、会社員としても大したことがない。綾子さんからすれば、私は恋愛対象ではなかったんです。」
「それで?」
「一度、周囲からカップルみたいに言われたことがあって、そのとき綾子さんは怒りました。『前田くんを好きになるような女だと思われたくない』と。」
華麟が小さく息を呑んだ。
「ひどい……。」
美凰は冷静に言う。
「いや、普通の反応だろ。」
「仲は良かったんですよね。私を振った後も、家に泊めてくれたりしましたし。」
「それは男として見ていないからだろう。」
美凰の指摘は容赦なかった。
「はい。そういうものです」
前田は苦笑した。
ほかに、どんな顔をすればよいのか分からなかった。
思い出したくない記憶だった。だが、忘れられるほど軽い記憶でもなかった。
綾子は傲慢だった。わがままだった。育ちの悪い者を見る目には、時折、隠しきれない軽蔑があった。
それでも、完全な悪人ではなかった。
気まぐれに優しく、面倒見がよく、前田を弟分のように扱った。嫌われてはいない。ただ男として見られていない。それは、別の意味で残酷だった。
「厄介だな。」
美凰は腕を組んだ。
「佐藤綾子にとって、お前は恨む相手ではない。執着する相手でもない。情で揺さぶることも難しい。敵としては面倒な相手だ。」
「敵なんですか?」
「今のところはな。」
美凰は即答した。
「佐藤綾子は、総漢国の大王を代えるために召喚された。召喚したのは杏麟という麒麟。と泰鳳。若くして総漢国の鳳凰界を率いる男だ。」
華麟の表情が曇る。
「泰鳳様は、尚英様が総漢国のためにならないと考えています。重税で民を苦しめているのは事実ですから……。」
「尚英は暗君だ。」
美凰ははっきり言った。
「そこは否定しない。魔王討伐に熱を上げ、成果もないまま税を重くし、民を疲弊させている。だが、だからといって泰鳳のやり方が正しいとは限らない。」
「大王を代えるには、法皇の許可が必要なんじゃないんですか?」
前田は当然の疑問を口にした。
「そうだ。」
美凰は頷いた。
元の世界で届かなかった女性が、この世界では王座に手をかけようとしている。
「大王は原則として世襲だ。総漢国の大王家もそうだ。だが、素王という存在は例外を作る口実になる。魔王討伐のために召喚された素王が、民のために大王位を請願する。法皇はそれを無下にはしにくい。」「つまり、綾子さんは魔王討伐の名目で召喚されたけれど、本当は総漢国の新しい大王になるために動いている。」「そう見ていい。」「そして私は、彩比売殿下の夫になるために召喚された。」「それも正しい。」「……政治の駒じゃないですか。」「今さら気づいたか。」 美凰の返事は冷たかった。 華麟が慌てて前田の前に出る。「でも、前田様をただの駒にしたいわけではありません。私は、前田様に彩比売殿下を支えてほしいんです。殿下が法皇になれば、女系法皇の道が開かれます。そうすれば、帝国の血統秩序も変わります。」「私がその夫に。」「はい。将来は、男性皇后となられるお立場です。」「男性皇后……。」 前田は額を押さえた。女系天皇に男性皇后とは、現実世界で聞いたあの議論を強く連想する。 会社員が皇位継承論争の当事者に。人生の転落なのか出世なのか、判断がつかなかった。 美凰が歩き出す。「ここから山道に入る。皇都へ向かう前に、別の隠れ家で正式な聖別を行う。」「聖別って、先ほど言っていた契約ですか。」「そうだ。華麟と私が、お前を主君と見做し、麒麟と鳳凰としての力を付与する。皇太子の夫候補として動くなら、最低限それが必要になる。」「受けなかったら死ぬとかではないんですよね?」「死にはしない。お前はすでに純仙だ。だが、聖別なしでは政治的にも霊力的にも弱い。素王として名乗ることはできても、彩比売殿下の夫候補としては不足だ。」 華麟が補足する。「聖別を受けると、私たちと深く想いを通わせることができますし、危険を察知したり、霊力を扱うための助けにもなります。もちろん、それは主従の契約でもありますから、軽いものではありません。」「主従……。」「はい。
麒麟の姿になった華麟の背は大きく、馬よりも安定して見えた。だが、それでも目の前にいるのは伝説上の霊獣である。乗るという発想自体が非現実的だった。 そもそも、前田は馬に乗ったことすらない。乗馬などただのサラリーマンには縁のない話だ。 外からかすかに金属の鳴る音が聞こえた。 もしかしたら追手が来ているのかもしれない、と前田が思うよりも先に美凰が表情を変えていった。「早いな。もう近くまで来ている。」「本当に追手が?」「だから言った。」 前田は観念した。 荷物は後で手配するという美凰の言葉を信じて鞄だけを手に取り、華麟の背におそるおそる跨る。鱗の感触がスーツ越しにも伝わった。 硬いが冷たくはない。むしろ、生命の熱があった。《しっかり掴まってください。舌を噛みますよ。》「え、ちょ――」 華麟が地を蹴った。 家の戸が開くより早く、前田の視界が跳ねた。 壁が近づき、消えた。華麟は開け放たれた裏戸から庭へ飛び出し、石垣を一息に越えた。前田は必死に鬣へ掴まった。落ちたら死ぬ。少なくとも、普通の人間なら死ぬ高さだった。 だが華麟の動きは滑らかだった。 地面を走るというより、風の上を跳ぶようだった。屋根瓦が後方へ流れ、細い路地が一瞬で過ぎ去る。古風な町並みはどこか日本に似ており、漢字を用いているので大体の意味は分かった。 そこへ一羽の大きな鳥がやってきたかと思うと、降り立って荷物を持った人間の姿となり隣を走った。さきほど「後から荷物を手配する」と言っていた美凰だった。 走っている、というより、軽くないはずの荷物を背負って屋根から屋根へ跳び移っている。衣の裾が風に舞う。人間の身体能力ではあり得なかった。「まず状況だけ言う。」 美凰の声は風に流されず、はっきり届いた。「ここは大倭帝国。法皇を国家元首とする連邦制国家だ。直轄領と、大王を元首とする大王国によって成り立っている。」「連邦制……。」「そしてここは、その構成国の一つ、総漢国だ。」 華麟が塀を越える。《前田様は、女性皇太子である彩比売殿下の夫となる素王として召喚されました。私と美凰が召喚しました》「素王って何?」《実際に王権を行使するわけではないですが徳によって人々を治める王を指します。》 説明はまだ腑に落ちない。だが、それ以上に気になる言
「麒麟?鳳凰?」「はい。私たちは、どんな生きものにも姿を変えることができます。」 そう言うと、華麟の輪郭が淡く光った。 前田は息を呑んだ。 次の瞬間、そこにいた女性の姿は消え、代わりに美しい霊獣が立っていた。 鹿に似たしなやかな身体。龍を思わせる顔立ち。額には角があり、鱗は淡い光を帯びている。鬣は絹糸のように流れ、瞳には人間以上の知性が宿っていた。 前田は思わず後ずさった。 華麟の声が、耳ではなく頭の内側に響いた。《驚かせてしまって申し訳ありません。でも、これが私の本来の姿です》「……頭の中に声が。」《主君と見做した仙人とは、聖別を通して想いを通わせることができます。ただし、前田様への正式な聖別はまだです。今は召喚の儀に伴う仮の縁にすぎません。》「聖別……?」 前田が聞き返すと、美凰が口を挟んだ。「麒麟と鳳凰は、主君と定めた純仙に聖別を与える。聖別は、特別な力と正統性を付与する契約だ。大王や親王、そして皇身位者は、麒麟と鳳凰の双方から聖別を受けるのが慣例になっている。」「純仙?」「お前のことだ。」「私が?」「生まれながらの仙人のことだ。異世界から召喚された素王は、なぜかこの世界へ来た時点で仙人になる。理屈は完全には分かっていない。だが、そういうものだ」 前田は自分の手を見た。 見た目は変わっていない。少なくとも、鏡を見なくても分かる範囲では、身体は自分のものだった。 いったい、どこが人間じゃなくなったというのか。「私、人間じゃなくて人外になったのですか?」「人外という言い方はやめろ。仙人だ。」 美凰は淡々と言った。「仙人って、あの仙人?」 白髪に長い髭をたくわえた老人へ変わったのだろうか。前田は思わず自分の顎に触れた。「お前の世界の仙人がどういう存在かは知らんが、まぁ見た目とかは人間と変わらないな。仙人だから偉いわけではない。条件を満たした存在というだけだ。そこに宗教的な意味を見出す者は多いが、実態はもっと現実的だ。」「現実的……。」 現実的という言葉が、これほど現実味なく響いたことはなかった。 美凰が窓の外へ目を向ける。「時間がない。華麟、先に運べ。荷物は後でこちらが手配する。」《はい》 華麟が前田の前に身を低くした。《前田様、私の背に乗ってください。まずここを離れます》「いや、いきなり乗れと言
前田が目を覚ましたとき、まず鼻に入ったのは畳に似た草の匂いだった。 その次に木の匂いがする。古い家の匂いに近い。どことなく懐かしさを感じた。 だが、前田が知る日本家屋とは少し違っていた。柱は太く、壁には見慣れない文様が刻まれている。燭台のようなものには青白い火が揺れていたが、油の匂いはしなかった。「……ここは?」 前田は身を起こそうとして、頭に鈍い痛みを覚えた。 周囲には荷物が散らばっていた。 会社の鞄やスマートフォン、文庫本、小さなお守り――なぜか自宅で使っていた湯呑みと皿まである。お気に入りではあったが、今ここにある理由はわからない。 しかし、それらがかえって、あの光の空間が夢ではなかったことを示していた。やはり所有権の概念は法律とは関係ないようだ。 前田はゆっくり顔を上げた。 そこにいた二人の女性が、同時に前田を見た。 一人は、やや明るい黒髪を長く垂らした女性だった。澄んだ瞳には人懐っこさと、前田の無事を案じる色が同居している。古風な衣には、見慣れない刺繍が走っていた。 もう一人は、黒に近い深紅の髪を結った女性だった。涼しい目は隙がなく、立っているだけで部屋の空気が引き締まる。「あ、気がつきましたか?」 やわらかな方の女性が、ほっとしたように顔を明るくした。「前田弘貴様ですね。私は華麟と申します。」「かりん……さん?」「はい。華やかな麟と書いて、華麟です。」 前田はまだ頭が回らなかった。 そのとき、もう一人の女性が短く言った。「美凰だ。」「みおう……さん?」「そうだ。説明は後にする。召喚術を使った痕跡はいずれ感知される。ここに長くはいられない。」「感知?」「追手が来るということだ。」 美凰の声は落ち着いていた。 落ち着きすぎていて、かえって怖かった。「追手って、何ですか。私は召喚されたばかりで、何も――」「何も知らないから危険なんだ。」 美凰は部屋の入口へ視線を走らせた。「ここは隠れ家だ。だが、もう安全ではない。前田弘貴、お前は素王として召喚された。いずれ大倭帝国の皇太子、彩比売殿下の夫となることを期待されている。」「……夫?」 前田の口から、乾いた声が漏れた。「いや、待ってください。魔王討伐では?」「表向きはな。」 美凰はそう言い切った。 華麟が慌てて美凰の袖を引いた。「美凰、最初か
召喚陣の光が消えても、華麟はしばらく動けなかった。 隠れ家の床には、見知らぬ衣服を着た青年が横たわっている。呼吸はある。脈も乱れていない。それを確かめて、華麟はようやく息をついた。「成功したな。」 美凰は扉の外へ意識を向けたまま言った。喜びより警戒が先に立つ声だった。「はい。でも……。」 華麟は青年の顔を見下ろした。召喚の瞬間、彼の記憶がわずかに流れ込んできた。白い光に満ちた職場。帰りを待つ者のいない部屋。胸の奥に残った、忘れられない女性の影。「この方は、私たちを許してくださるでしょうか?」「そんなこと、気にしたらキリがない。そもそも許しを求める資格があると思うか?」 美凰の言葉は厳しかった。だが、華麟を責めているのではない。自分自身にも向けているのだと、長い付き合いの華麟には分かった。「私たちはこの男から、元いた世界を奪った。彩比売殿下のためという理由でな。」 華麟は唇をかんだ。皇太子である彩比売を支えたい。その思いに偽りはない。けれど、目の前の青年を政略結婚の駒にしてよい理由にはならなかった。「だから、選べるようにしたいです。事情を隠さずに話して、そのうえで前田様ご自身に決めていただきます。」「悠長なことを言える状況ではない。」「それでもです。」 華麟が顔を上げると、美凰はようやく振り返った。深紅の髪の奥で、涼しい目がわずかに細められる。「なら、まず生き延びさせろ。選ぶのはその後だ。」「はい。」「それから、忘れるな。こいつは彩比売殿下の夫候補である前に、一人の人間だ。」 華麟は頷き、青年の乱れた襟元をそっと直した。 そのとき、前田弘貴の指先がかすかに動いた。
コピー機の前にいたはずの前田弘貴は、足場も影もない光の中に立っていた。「これは、夢か?」 数秒前まで、室内照明の白い光も、オフィスの硬い床も確かにあった。今は、そのどちらもない。 目の前に広がるのは、白とも黒ともつかない光だけだった。 目が見えなくなったのか。そう思って手足を動かしても、何にも触れない。 立っているのか、浮いているのかさえわからない。自分の身体の輪郭まで、光に溶けてしまいそうだった。 その光の中に、いつの間にか一人の男が立っていた。 男と呼んでよいのかもわからない。穏やかな顔は老人にも青年にも見え、白い衣だけが光の中で輪郭を保っていた。「前田弘貴くんだね?」「……はい?」 返事をしてから、前田は自分でも間抜けな声だと思った。 だが、無理もなかった。仕事中に突然、得体の知れない空間へ飛ばされ、目の前の人物から名前を呼ばれたのである。冷静でいろという方が無理だった。「落ち着き給え。君はこれから、別の世界へ行く。」「別の世界?」「律令風異世界、という言ったらわかるかな。日本人の君には、ある程度なじみやすい部分もあると思うよ。古代の日本や中華風の制度に似たところも多い。」「いや、待ってください。律令風? 異世界? それ、どういう――」「それでね。」 男は前田の混乱をまるで気にしなかった。「今回、魔王討伐の名目で、君を含めて二人の素王が召喚されているらしい。」「……魔王討伐?」 前田は思わず聞き返した。ラノベとかに出てくる勇者になれとでもいうのか。「なのに律令風? 和風? というか、もう一人召喚?」 ラノベの異世界は洋風だったはずだ。なぜ洋風なのかは前田もよくしらないが、そういうお約束がある。「そう。別々の者たちが、それぞれに召喚しているみたいでね。政治的には少し面倒なことになるかもしれないが、まあ、仕方ない。」「仕方ないで済ませる話ですか、それ。」 こう言う場面でツッコミを入れることができる前田も、結構図太い神経の持ち主である。まぁ、そういう人だからこそ召喚されたのかもしれないが。「君の持ち物も、ある程度は一緒に移るはずだよ?」「持ち物って……。」 前田は反射的に自分の手元を見たが、そこには何もない。 自分の持ち物とは、いったい何なのか。家に置いてある物まで巻き込まれるのか、それ